神社探訪そのいち
一月十日、きまぐれに散歩に行きました。
習慣なき運動に大したダイエット効果はないと思いますが、しないよりはマシでしょう。
いつものように神社へ向かいます。
散歩には当然神社。神社に行かねば散歩じゃない。
世の真理ですね。
そのうち二つについて語りたく思います。
はじめに儀徳町の天満宮について。
もうすでに正月の装いはなくなり、平時に戻ってしまったようですね。
大きい神社もいいですが、私は町の神社が好きです。
町の神社は地域の歴史とともにあり、変わっていく街の中で昔の影を多く残してくれます。
鳥栖では神社の横に公民館を設置している町が多く感じます。
儀徳天満宮の横は旭まちづくり推進センター、地区の中心ですね。
がきんちょの頃はお世話になりました。今も選挙でお世話になってるけど。
さて、儀徳天満宮について調べようと思い『佐賀県神社誌要』を当たりましたが載っておりませんでした。
インターネット上の情報によると、慶安二年ごろに天満宮と称せられるようになったとか。
境内は広くかつては池があったようです。
二の鳥居までの間に橋の跡が確認できます。
建立当初の社勢を感じさせますね。社勢などという言葉はないですが……。
神仏習合のころでしょうからおとなしく寺勢と言うべきでしょうか?
そんなことはどうでもよくて、もっと注目すべき点がありますね。
この写真に写る一の鳥居、肥前鳥居によく似ています。
三分割された柱、貫、笠木と島木。台輪があり、楔がないです。
柱は下ほど太く見え、どっしりキュートな肥前鳥居の特徴をはらんでいますが、笠木と島木が一体化していない点が異なります。
私はこの鳥居が肥前鳥居かそうでないか決める立場にありませんが、やっぱり笠木と島木の一体化がもたらす視覚的なインパクトは大きく、簡単に肥前鳥居だとは言えないです。
似ている似ていないを語るときに比較画像を用意せんとは何事かとかつて教授に怒られたので一応肥前鳥居の例をお見せしますね。
鳥栖市指定重要文化財ですね。慶安二年(1649)に鍋島大和守茂範によって建立されたようです。
肥前鳥居の最盛期は慶長年間(1596‐1614)ですが、肥前鳥居の特徴をよくあらわしているといえるでしょう。
さて、最初に示した儀徳天満宮の鳥居はなぜあのような形状をとるに至ったのでしょうか?
儀徳天満宮は慶安二年には天満宮と称せられていたらしいので、村田八幡宮の鳥居の建立時期と同じころには儀徳天満宮はすでにあったと推察されます。
ここで儀徳天満宮の鳥居に記された建立日を見てみましょう。
元禄十五年歳次壬午二月二十五日。
元禄十五年というと1702年、ということは肥前鳥居の流行したころからは百年近く経ってから建立されたということです。
さすがに鳥居のない神社だったということもないでしょうから、元禄十五年に鳥居を新しく寄進する際、古い鳥居を参考にした部分はあったでしょう。
この鳥居が建立される以前には肥前鳥居が儀徳天満宮にもあったのかもしれませんね。
しかし、儀徳天満宮における鳥居の変遷だけで話を終えていいわけでもないでしょう。
この鳥居の様式が元禄の肥前で一般的となっていて、広く作成されていた可能性を考慮すべきです。
そしてなんと似た作例が村田八幡宮でも確認できました。
というわけで今回行って語りたかったもう一つの神社が村田八幡宮ですね。
祭神は応神天皇、玉依姫命、菅原道真、豊玉彦命、筒男命、保食神。
かつては江島町石王に宇佐八幡宮から分霊した社殿がありましたが、天文年間(1532-1554)初め頃に筑紫惟門によって現地に遷されたとあります。
天文五年には島津氏の侵攻によって社殿、文書神宝すべて焼失しています。
その後鍋島氏の領地となり、鍋島氏の信仰厚く寛文年間(1661‐1672)に再興され、以降江島郷の宗廟として栄えました。
明治には村社に列せられています。
この村田八幡宮の二の鳥居が先の作例とよく似ているのです。
正面から撮れやと過去の自分に言いたいですね。
ともかく、この二の鳥居の形状は儀徳天満宮の一の鳥居とそっくりです。
しかしなんと!
この鳥居の建立時期がわかりません!!!!!!
というのもですね、ぐるぐる回って確認してみたのですが年月日の記述がどこかわかりませんでした。
とはいえ肥前鳥居の形式を受容しつつも笠木と島木の一体化は受け入れなかったこの形式は、ある程度広まっていたとみられます。
一方で肥前鳥居の建立は元禄年間にも続いています。
鳥栖市にある日子神社の二の鳥居は元禄十三年に寄進されていながら立派な肥前鳥居の形状を保っています。
三本で構成されていない貫は材質から後補と考えられますね。
このように一般的な肥前鳥居の形状を受け継いでいる作例があるからには、儀徳天満宮一の鳥居や村田八幡宮二の鳥居の作例には意図があるはずです。
笠木と島木の一体化は鳥居の印象を大きく変える要素ですから、わざとその要素を受け入れなかった、あるいは明神鳥居の要素を取り入れたということについては考える必要があるでしょう。
はじめ私は寄進者の性質が関係しているかと考えました。
村田八幡宮の一の鳥居は鍋島氏の寄進です。
鍋島氏は社寺の信仰が厚く、各地の神社によく寄進しています。
鍋島氏の寄進によるものは一般的な肥前鳥居の形のままかと考えたのですが、日子神社のものは現在の轟木町の氏子によるものとみられますし、1637年に英彦山神宮に鍋島勝茂が寄進した銅の鳥居は笠木と島木が一体ではありません。
寄進者は関係なさそうですね。
むしろ日子神社は英彦山神宮より勧請されたのに、英彦山神宮の鳥居の形式を模倣しなかったことのほうが驚きです。
神社の系譜や祭神も関係なさそうです。
もうわからんので何か気づいたことや知っていることがあればぜひ教えてもらいたいものですね。
さて、神社のことを考えながらする散歩は最高でしたね。
本当はもっと語りたい要素があったのですが、今回は肥前鳥居が目についたので肥前鳥居についてばかり語ってしまいました。
最後に今回取った気になる写真たちを載せて終わりたいと思います。
では儀徳天満宮から
村田八幡宮の写真をご覧になってさようなら
参考文献
日子神社の概要が知りたい。祀られている神様やできた由来、なんのご利益がある神社なのか知りたい。 | レファレンス協同データベース
村田八幡宮に関する資料はありますか。 | レファレンス協同データベース
鳥栖市ホームページ - 市指定重要文化財(石造建造物) 肥前鳥居の紹介です
鳥栖市教育委員会「肥前鳥居 鳥栖市重要文化財(石造建築物)」とすの文化財解説シート 指定文化財シリーズNo.2, 2000-03.