神社探訪その3
1月16日、恒例の神社探訪。
今回は南下して下野老松宮と下野水天宮へ。
下野町は久留米市との境界、筑後川と宝満川の合流地点の西岸にあります。
いくつかの集落をまとめて下野町としていますが、主要な集落は下野老松宮を中心に形成されているようです。
下野老松宮の拝殿です。
太宰権帥として左遷させられた菅原道真はこの地を巡察し、荒れた原野だったこの地に生えた一本の松のもとで休息をとったそうです。
それを記念して仁平三年に石祠を建てて菅原道真を祀ったことがこの神社の始まりです。
その後住民が移住し始め、正保二年に社殿を建立し現在の地に遷座しました。
明治十六年に村社に制定されています。
本殿です。
木鼻に龍、貫の彫刻もいいですね。
狛犬。
でも誰かの資料にはなるんじゃないかな……。
文化十一年に奉納されたようです。
石工の名もありますね。瀧澤安兵衛眞乘……でしょうか。
軽く調べたところ神埼市のホームページに倉岡神社の鳥居について書いてあり、石工が瀧澤龍左衛門長六とありました。
瀧澤氏は肥前で活動していた石工の家系の可能性がありますね。
石祠です。いくつかありました。
三翁碑。三人の名前が刻まれていますが、何を成したのでしょうか。
立石さん、執行さん、古賀さんとたしか小学生のころ下野に住んでる子がいた気がします。
左手に持物があったようですね。右手は欠損しています。
激しく波打ち立体的な衣文が特徴的ですね。
境内にある平野桼神社。
名前の由来が気になります。
男性神像、奥には稲荷社。
石製の稲荷社。
稲荷社、布袋、男性神像など……。
雑然としてますね。
木製男性神像は結構珍しいとおもいます。
そもそも造像文化は仏教に由来していて、古代神道では自然崇拝や鏡など偶像を用いませんでした。
神仏習合で神像製作が起こるようになったといえどもここまで神像が多いのは、菅原道真という実在の個人を祀っていることに起因するのでしょうか。
一の鳥居。
肥前鳥居風ですね。
刻まれている文章を捜してみましたが、風化が激しく建立年を見つけられませんでした。
二の鳥居。
これも肥前鳥居風。
笠木のそりが対称ではありませんでした。
建立年は年号が判読できず。歳次乙巳九月吉辰。
乙巳で肥前鳥居の建立年代から慶長十年、寛文六年、享保十年、天明五年、弘化二年に絞り込めます。
文の漢字が入ってるように見えたのでおそらく寛文六年(1666)じゃないでしょうか。
下野老松宮は肥前鳥居の影響や肥前の石工の関係が認められ、興味深いですね。
次は下野水天宮です。
下野水天宮の拝殿です。
下野水天宮は『佐賀県神社誌要』に記載がありません。
神社の縁起はこちら。
平家の落人伝説からですね。
どちらが先かわかりませんが、この一帯で広く信仰されていたようですね。
貫には龍。
龍の表すものは皇帝、水の力。
安徳天皇を祀り、水難防止のご利益があるとされる水天宮に良いモチーフですね。
狛犬。
本殿裏に安置された石像群。
首のない男性神像。
水天宮の場合安徳天皇の神像だったのでしょうか。
神像の表現は貴族風の衣装と笏ぐらいで個人を区別するものはあまり見られません。
ですが、左手になにか抱いているようにみえます。
面白い作例です。
左手に経巻、右手には剣を持つはずですが、持物は失われたのでしょうか。
頭部も違和感があります。
文殊菩薩は髷を結った姿や宝冠を被った姿が見られますが、この像には特に見られません。
文殊菩薩には慈母供養の信仰があるので、水天宮の祭神の一柱である安徳天皇の母建礼門院と関連があるやもしれないです。
龍王社とある祠。
中国の官服姿から善女龍王とみられます。
水、雨を司る龍から雨ごいの対象として信仰されたようです。
鳥居です。
おそらく明治三十二年建立。
肥前鳥居との関連は見られず。
今回の神社探訪も楽しかったです。
ハイブリッド肥前鳥居の分布を確かめることが自分の中で一番の目的となりつつあります。
次回は鳥栖市南東部の神社を訪れたいと思います。
それではまた。
参考文献