雑記雑考錯雑

高等遊民のありよう

神社探訪そのよん

一月二十日の神社探訪は鳥栖市南東部。

家から遠いので今回は散歩ではなく自転車で。

散歩のついでに神社に行っているはずだったのに。

とうとう手段と目的が入れ替わってきた。

今回行った地域は安楽寺町、高田町、水屋町、酒井東町、酒井西町。

鳥栖の古くからある田園地帯ですね。

昔は自分の住む鳥栖市南部には田んぼしかなくてつまらないと思っていましたが、今になってみると田んぼは古来からの資産。

田園の中の集落は長い歴史を秘めています。

さて、神社を見ていきましょう。

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安楽寺天満宮です。

安楽寺の地名の由来は大宰府安楽寺天満宮から。

太宰府天満宮の前身安楽寺の荘園だったそうです。

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貫上の彫刻。

龍のモチーフは様々な神社で使われますね。

火災防止祈願を籠めているのかな。

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狛犬。なんか丸っこくてかわいい。

文久四年甲子とあったので、1864年改元前に作られたのでしょう。

石工は久留米の江藤惣右エ門𠮷道とあります。

久留米と近いだけあって久留米の石工と交流があったんですね。

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本殿。

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あまり肥前鳥居らしさはありませんね。

しいて言えば三分割された笠木と島木、あと楔がないことでしょうか。

建立は寛延四辛未年二月廿三日。1751年です。

 

では次の高田老松宮を見ていきます。

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高田の名の通り、周りの土地よりほんの少し高く感じられる町でした。

鳥栖市南部の集落はいずれも筑後川沖積平野の中でも自然堤防として盛り上がった土地に築かれてきました。

集落の中心は当然神社です。

屋根の上にはしゃちほこ?が見えますね。

裏手に回ってみましたが拝殿と本殿が一体のようです。

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狛犬は文政八年の建立。

肉付きのいい体つきですね。

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石祠が社の右手に祀られていました。

狛犬の造形が社の前にあるものとはまったく異なります。

祠は皇大神宮猿田彦大神などと書かれていました。

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鳥居。昭和三十年の建立とあります。

肥前鳥居とは似つかないですね~。

 

次は水屋天満宮

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向拝柱が石でできてるのが珍しいです。

水屋天満宮の建立は1743年と九州大学の学生レポートにあります。

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彫刻が面白いです。

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この木鼻の彫刻……何?

龍面の羽根つき鯉?

獅子や龍、獏なんかはよく見ますがこれは珍しいですね。

鯉の滝登りの伝承からでしょうか。

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こちらは原在中の飛竜図(部分)。府中市美術館サイトより。

よく似ていませんか?

鯉の滝登りは立身出世を思わせるいいテーマですね。

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石祠がふたつ。

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狛犬天保十四年建立。

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隣接するこちらはおそらく山王社。

九州大学の学生レポートでは少なくとも宝暦11年(1761)には建立されていたとのこと。

天満宮より早くに建てられていたとの記述もあります。

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珍しく三猿。

山王社ということは日吉大社がもとであり、天台宗山岳信仰の影響を受けた三猿はまさにこの神社と適しているといえるでしょう。

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こちら天満宮の鳥居。

天明四年(1784)の建立ですね。

肥前鳥居の要素はあまり見られず。

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こちら山王社の鳥居。

弘化三年(1846)の建立です。

これもまた肥前鳥居らしさはなし。

 

次は酒井東町の宝満宮。

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新しそうに見えます。

祭神は玉依姫命景行天皇

宝満山の竈門神社から平安時代後期に勧請したとか。

歴史のある神社ですね。

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狛犬。気迫のある顔立ち。

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碑と狛犬

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肥前鳥居らしさはなし。

万延元年(1860)の建立。

 

次は酒井西町の今宮社。

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石製の小さい社殿があります。

正慶年間(1332-1333)に京都の今宮神社から勧請したとされています。

祭神は素戔嗚尊稲田姫命大己貴神

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平成七年建立の鳥居。

 

最後に酒井西町の天満宮

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縁起はこちら。

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豪快な顔をした狛犬

文政十年の建立とみられます。

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貫の上に龍。懸魚には鶴……でしょうか。

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装飾豊かで本殿も立派。

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水害復旧記念碑。

昭和二十八年の水害では黄色い線の場所まで水が来ました。

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この鳥居の建立は享保十二年(1727)。

ここの鳥居も肥前鳥居らしさはありません。

今回の地域はあまり肥前鳥居の要素が見られませんね……。

鳥栖市南東部は江戸時代の主要道路の長崎街道から離れていることも関係しているやもしれません。

道路は文化も運びますからね。

肥前鳥居がある村田八幡宮も日子神社も長崎街道のそばにあります。

肥前藩主の崇敬も集めました。

やはり肥前鳥居の制作の主体は肥前藩主であり、その拡散も肥前藩主の影響のもとにあると思います。

農村部の神社は藩主から強く影響を受けるものではなかったのかもしれません。

次の神社探訪は未定。

鳥栖市中心部にでもいこうかな。

 

参考文献

水屋

ファンタスティック 江戸絵画の夢と空想 東京都府中市ホームページ

<マチムラの記憶>酒井東町の宝満神社 本社より古い景行天皇祭る|まちの話題|佐賀新聞ニュース|佐賀新聞LiVE

<マチムラの記憶>酒井西町に二つの神社 今宮神社、3神祭る|まちの話題|佐賀新聞ニュース|佐賀新聞LiVE

神社探訪その3

1月16日、恒例の神社探訪。

今回は南下して下野老松宮と下野水天宮へ。

下野町は久留米市との境界、筑後川宝満川の合流地点の西岸にあります。

いくつかの集落をまとめて下野町としていますが、主要な集落は下野老松宮を中心に形成されているようです。

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下野老松宮の拝殿です。

佐賀県神社誌要』によりますと、祭神は菅原道真

太宰権帥として左遷させられた菅原道真はこの地を巡察し、荒れた原野だったこの地に生えた一本の松のもとで休息をとったそうです。

それを記念して仁平三年に石祠を建てて菅原道真を祀ったことがこの神社の始まりです。

その後住民が移住し始め、正保二年に社殿を建立し現在の地に遷座しました。

明治十六年に村社に制定されています。

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本殿です。

木鼻に龍、貫の彫刻もいいですね。

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狛犬

毎回狛犬撮ってますけど狛犬にあまり興味は引かれません。

でも誰かの資料にはなるんじゃないかな……。

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文化十一年に奉納されたようです。

石工の名もありますね。瀧澤安兵衛眞乘……でしょうか。

軽く調べたところ神埼市のホームページに倉岡神社の鳥居について書いてあり、石工が瀧澤龍左衛門長六とありました。

瀧澤氏は肥前で活動していた石工の家系の可能性がありますね。

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石祠です。いくつかありました。

笏をもった男性神像ですね。菅原道真でしょう。

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三翁碑。三人の名前が刻まれていますが、何を成したのでしょうか。

立石さん、執行さん、古賀さんとたしか小学生のころ下野に住んでる子がいた気がします。

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楽殿?に奉納されている十一面観音菩薩立像。

左手に持物があったようですね。右手は欠損しています。

激しく波打ち立体的な衣文が特徴的ですね。

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境内にある平野桼神社。

名前の由来が気になります。

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性神像、奥には稲荷社。

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石製の稲荷社。

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稲荷社、布袋、男性神像など……。

雑然としてますね。

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木製男性神像は結構珍しいとおもいます。

そもそも造像文化は仏教に由来していて、古代神道では自然崇拝や鏡など偶像を用いませんでした。

神仏習合で神像製作が起こるようになったといえどもここまで神像が多いのは、菅原道真という実在の個人を祀っていることに起因するのでしょうか。

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一の鳥居。

肥前鳥居風ですね。

刻まれている文章を捜してみましたが、風化が激しく建立年を見つけられませんでした。

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二の鳥居。

これも肥前鳥居風。

笠木のそりが対称ではありませんでした。

建立年は年号が判読できず。歳次乙巳九月吉辰。

乙巳で肥前鳥居の建立年代から慶長十年、寛文六年、享保十年、天明五年、弘化二年に絞り込めます。

文の漢字が入ってるように見えたのでおそらく寛文六年(1666)じゃないでしょうか。

 

下野老松宮は肥前鳥居の影響や肥前の石工の関係が認められ、興味深いですね。

次は下野水天宮です。

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下野水天宮の拝殿です。

下野水天宮は『佐賀県神社誌要』に記載がありません。

神社の縁起はこちら。

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平家の落人伝説からですね。

筑後川の対岸の久留米に総本宮の水天宮があります。

どちらが先かわかりませんが、この一帯で広く信仰されていたようですね。

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貫には龍。

龍の表すものは皇帝、水の力。

安徳天皇を祀り、水難防止のご利益があるとされる水天宮に良いモチーフですね。

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狛犬

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本殿裏に安置された石像群。

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首のない男性神像。

水天宮の場合安徳天皇の神像だったのでしょうか。

神像の表現は貴族風の衣装と笏ぐらいで個人を区別するものはあまり見られません。

ですが、左手になにか抱いているようにみえます。

面白い作例です。

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小児文殊とある石碑の横に獅子に乗った文殊菩薩像。

左手に経巻、右手には剣を持つはずですが、持物は失われたのでしょうか。

頭部も違和感があります。

文殊菩薩は髷を結った姿や宝冠を被った姿が見られますが、この像には特に見られません。

文殊菩薩には慈母供養の信仰があるので、水天宮の祭神の一柱である安徳天皇の母建礼門院と関連があるやもしれないです。

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龍王社とある祠。

中国の官服姿から善女龍王とみられます。

水、雨を司る龍から雨ごいの対象として信仰されたようです。

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鳥居です。

おそらく明治三十二年建立。

肥前鳥居との関連は見られず。

 

今回の神社探訪も楽しかったです。

ハイブリッド肥前鳥居の分布を確かめることが自分の中で一番の目的となりつつあります。

次回は鳥栖市南東部の神社を訪れたいと思います。

それではまた。

 

参考文献

神埼デジタルミュージアム「かんざき@NAVI」-資料室

佐賀県神社誌要 - 国立国会図書館デジタルコレクション

藤澤隆子「文殊菩薩像造立の一系譜(上)」『東海女子大学紀要』19,1999,p243-252.

神社探訪そのに

一月十二日、ニートは暇なので昼から散歩。

やっぱりニートは最高やな!

今回は幸津の天満神社に行きました。

「幸津」の名があらわすように、かつて鳥栖市南部のあたりは海が広がっていました。

このあたりは「江島」「不動島」「田出島」など、地名に海の名残がみえます。

幸津のあたりから少し高くなっているので、ちょうどこの辺りが港であったのでしょう。

筑後川沖積平野である鳥栖市南部の田園地帯はたびたび水害に見舞われてきました。

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幸津天満神社へ続く昔ながらの小道を歩いていると、古くからの幸津の家々に施された水害対策を感じ取ることができます。

石垣の上に母屋を作る形式は筑後川中流域ではよく見られたようです。

かつては家に船を常備していたとか。

さて、神社に向かいましょう。

幸津天満神社は町の神社にしてはかなり広い境内を持っています。

放生池もあり、参道は長く鳥居が三本あります。

境内に公民館と遊具が設置され、今もよく管理され愛されている神社だとわかります。

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拝殿です。

入母屋造に向拝として唐破風を取り付けた形ですね。

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懸魚には雲と梅でしょうか。天満神社のモチーフですかね。

貫の彫刻も見事ですね。

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狛犬

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本殿です。

本殿の前にも狛犬が三組いらっしゃいました。

本殿は流造ですね。

こちらも彫刻がよく施されています。

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本殿の裏に祀られている祠です。

菩薩坐像でしょうか。

両手が膝の上にあるように見えますが印相が分かりませんね。

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拝殿の西に祀られている祠です。

笏を持っていること、貴族風の装いから男性神像とみられます。

菅原道真公でしょうか。

神像の存在は神仏習合の影響とこの神社の信仰の厚さを思わせます。

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合掌する菩薩坐像。

横のはなんでしょうか。仏教に明るくないのでわかりません。

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薬師如来坐像です。

見事な造形ですね。

左手は与願印、そして持物に薬壺。

通常右手は施無畏印を示すはずですが……。

薬指と親指をつけていますね。阿弥陀如来の九品来迎印の下生に見えます。

これは正しい印相の組み合わせなのでしょうか?

面白い作例です。

何はともあれこのような立派な仏像が伝わっているあたりに神仏習合を感じられますね。

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拝殿東の仏像群。

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大日如来像ですね。

宝冠を被った菩薩風の像容に一瞬菩薩像かと思いました。

印が見えれば金剛界胎蔵界かわかるんですが、さすがに前掛けをめくるのは気が引けました。

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十一面観音像ですかね。

廃仏毀釈の影響を逃れたのかたくさんの仏像が境内に祀られていました。

優れた薬師如来坐像が伝来するなど、村社に列せられるほどでもなかった神社であるのに対して神社の規模が大きいように感じます。

これらはどこから伝来したのでしょうか。

もっとも考えられるのは太宰府天満宮でしょう。

実は、幸津はかつて太宰府天満宮の前身である安楽寺の荘園でした。

鳥栖市内には安楽寺の荘園であった地域が多く、「安楽寺」と名の付く町も残っています。

鳥栖天満宮が多く存在するのもこの影響が大きいでしょう。

幸津天満神社にも安楽寺との交流が多くあったと考えられます。

太宰府周辺の、中央の様式を学んだ地方仏師たちが制作した仏像を迎えることができたことでしょう。

大日如来密教の仏ですから、天台宗寺院だった安楽寺とのつながりも見えてきますね。

 

さて、前回に引き続き鳥居を見ていきましょう。

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一の鳥居です。

見た感じ肥前鳥居らしさは全く感じません。

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建立は明治廿九年丙申六月吉辰とのこと。

1896年ですね。

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二の鳥居。

肥前鳥居っぽさが出てきましたね。

三つの部分で構成された柱、貫、島木と笠木。台輪。下ほど太い柱。

端で急にそる笠木。楔はなし。

いい感じですね。

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建立は元禄十四年龍集辛巳二月穀旦と書かれています。

1701年の古い鳥居ですね。

前回見た鳥居と似ており、時期も同じころだったので、このころはこの形式がよく作られたようです。

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三の鳥居。

これはまた奇妙ですね。

台輪の存在や下ほど太い柱、楔がないなどある程度肥前鳥居の特徴はありますが、柱も島木、笠木も三分割ではなく二分割となっています。

二分割の肥前鳥居もありますが……。

なにより笠木のそりが中央から緩やかに始まっています。

明神鳥居的ですね。

この特徴は一の鳥居も見られましたね。

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建立は寛永二歳次乙酉四月佛生日とあります。

これ、事実なのでしょうか?

寛永二年は乙丑なんですよね。

乙酉なのは正保二年です。

1625年か1645年か……。

いづれにせよ元禄のものより早い年代のものです。

時間が経って明神鳥居と混ざったと簡単に片づけられなくなってしまいました。

逆に肥前鳥居の黎明期に近いことを考えると、肥前で流行し始めた新奇な肥前鳥居の要素を取り入れてみた明神鳥居……というのもありそうです。

鳥居はやっぱり面白いです。

一般に認知されている肥前鳥居の最も目を引く特徴はやはり笠木と島木の一体化です。

しかし、笠木と島木の一体化した鳥居は佐賀県内でもそう多くは残っていません。

それらは地方自治体の重要文化財などに指定され、肥前鳥居の典型的な造形として保護されています。

果たして本当に肥前で隆盛した鳥居はそのような造形だったのでしょうか。

重要文化財として指定されていない、そのへんの神社のそのへんの鳥居たちも同じように古くから残存してきた鳥居です。

何の変哲もない鳥居だと今まで思わせてきた鳥居こそ、本当に肥前で隆盛してきた「肥前鳥居」なのかもしれません。

 

奇特な肥前鳥居と広く普及した明神鳥居をうまく取り入れた「ハイブリット肥前鳥居」が今いちばんアツい。

 

 

参考文献

鳥栖市ホームページ - 市指定重要文化財(美術工芸品・彫刻) 薬師如来坐像の紹介です

知恵の輪-02懸魚彫刻のいろいろ

鳥栖市鳥栖市史』鳥栖市,1973-03-31,p131.

神社探訪そのいち

一月十日、きまぐれに散歩に行きました。

習慣なき運動に大したダイエット効果はないと思いますが、しないよりはマシでしょう。

いつものように神社へ向かいます。

散歩には当然神社。神社に行かねば散歩じゃない。

世の真理ですね。

今回行ったのは佐賀県鳥栖市にある三つの神社。

そのうち二つについて語りたく思います。

はじめに儀徳町の天満宮について。

 

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もうすでに正月の装いはなくなり、平時に戻ってしまったようですね。

大きい神社もいいですが、私は町の神社が好きです。

町の神社は地域の歴史とともにあり、変わっていく街の中で昔の影を多く残してくれます。

鳥栖では神社の横に公民館を設置している町が多く感じます。

儀徳天満宮の横は旭まちづくり推進センター、地区の中心ですね。

がきんちょの頃はお世話になりました。今も選挙でお世話になってるけど。

 

さて、儀徳天満宮について調べようと思い『佐賀県神社誌要』を当たりましたが載っておりませんでした。

明治に定められた社格制度において、無格社だったのでしょう。

インターネット上の情報によると、慶安二年ごろに天満宮と称せられるようになったとか。

天満宮である以上祭神は菅原道真公でしょう。

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境内は広くかつては池があったようです。

二の鳥居までの間に橋の跡が確認できます。

建立当初の社勢を感じさせますね。社勢などという言葉はないですが……。

神仏習合のころでしょうからおとなしく寺勢と言うべきでしょうか?

そんなことはどうでもよくて、もっと注目すべき点がありますね。

この写真に写る一の鳥居、肥前鳥居によく似ています。

三分割された柱、貫、笠木と島木。台輪があり、楔がないです。

柱は下ほど太く見え、どっしりキュートな肥前鳥居の特徴をはらんでいますが、笠木と島木が一体化していない点が異なります。

私はこの鳥居が肥前鳥居かそうでないか決める立場にありませんが、やっぱり笠木と島木の一体化がもたらす視覚的なインパクトは大きく、簡単に肥前鳥居だとは言えないです。

似ている似ていないを語るときに比較画像を用意せんとは何事かとかつて教授に怒られたので一応肥前鳥居の例をお見せしますね。

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こちらが同じく鳥栖市の村田八幡宮の一の鳥居。

鳥栖市指定重要文化財ですね。慶安二年(1649)に鍋島大和守茂範によって建立されたようです。

肥前鳥居の最盛期は慶長年間(1596‐1614)ですが、肥前鳥居の特徴をよくあらわしているといえるでしょう。

さて、最初に示した儀徳天満宮の鳥居はなぜあのような形状をとるに至ったのでしょうか?

儀徳天満宮は慶安二年には天満宮と称せられていたらしいので、村田八幡宮の鳥居の建立時期と同じころには儀徳天満宮はすでにあったと推察されます。

ここで儀徳天満宮の鳥居に記された建立日を見てみましょう。

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元禄十五年歳次壬午二月二十五日。

元禄十五年というと1702年、ということは肥前鳥居の流行したころからは百年近く経ってから建立されたということです。

さすがに鳥居のない神社だったということもないでしょうから、元禄十五年に鳥居を新しく寄進する際、古い鳥居を参考にした部分はあったでしょう。

この鳥居が建立される以前には肥前鳥居が儀徳天満宮にもあったのかもしれませんね。

しかし、儀徳天満宮における鳥居の変遷だけで話を終えていいわけでもないでしょう。

この鳥居の様式が元禄の肥前で一般的となっていて、広く作成されていた可能性を考慮すべきです。

そしてなんと似た作例が村田八幡宮でも確認できました。

というわけで今回行って語りたかったもう一つの神社が村田八幡宮ですね。

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村田八幡宮は『佐賀県神社誌要』に記載がありました。

祭神は応神天皇玉依姫命菅原道真豊玉彦命、筒男命、保食神

かつては江島町石王に宇佐八幡宮から分霊した社殿がありましたが、天文年間(1532-1554)初め頃に筑紫惟門によって現地に遷されたとあります。

天文五年には島津氏の侵攻によって社殿、文書神宝すべて焼失しています。

その後鍋島氏の領地となり、鍋島氏の信仰厚く寛文年間(1661‐1672)に再興され、以降江島郷の宗廟として栄えました。

明治には村社に列せられています。

 

この村田八幡宮の二の鳥居が先の作例とよく似ているのです。

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正面から撮れやと過去の自分に言いたいですね。

ともかく、この二の鳥居の形状は儀徳天満宮の一の鳥居とそっくりです。

 

しかしなんと!

この鳥居の建立時期がわかりません!!!!!!

というのもですね、ぐるぐる回って確認してみたのですが年月日の記述がどこかわかりませんでした。

とはいえ肥前鳥居の形式を受容しつつも笠木と島木の一体化は受け入れなかったこの形式は、ある程度広まっていたとみられます。

 

一方で肥前鳥居の建立は元禄年間にも続いています。

鳥栖市にある日子神社の二の鳥居は元禄十三年に寄進されていながら立派な肥前鳥居の形状を保っています。

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三本で構成されていない貫は材質から後補と考えられますね。

このように一般的な肥前鳥居の形状を受け継いでいる作例があるからには、儀徳天満宮一の鳥居や村田八幡宮二の鳥居の作例には意図があるはずです。

笠木と島木の一体化は鳥居の印象を大きく変える要素ですから、わざとその要素を受け入れなかった、あるいは明神鳥居の要素を取り入れたということについては考える必要があるでしょう。

 

はじめ私は寄進者の性質が関係しているかと考えました。

村田八幡宮の一の鳥居は鍋島氏の寄進です。

鍋島氏は社寺の信仰が厚く、各地の神社によく寄進しています。

鍋島氏の寄進によるものは一般的な肥前鳥居の形のままかと考えたのですが、日子神社のものは現在の轟木町の氏子によるものとみられますし、1637年に英彦山神宮鍋島勝茂が寄進した銅の鳥居は笠木と島木が一体ではありません。

寄進者は関係なさそうですね。

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むしろ日子神社は英彦山神宮より勧請されたのに、英彦山神宮の鳥居の形式を模倣しなかったことのほうが驚きです。

神社の系譜や祭神も関係なさそうです。

もうわからんので何か気づいたことや知っていることがあればぜひ教えてもらいたいものですね。

 

さて、神社のことを考えながらする散歩は最高でしたね。

本当はもっと語りたい要素があったのですが、今回は肥前鳥居が目についたので肥前鳥居についてばかり語ってしまいました。

最後に今回取った気になる写真たちを載せて終わりたいと思います。

 

 

では儀徳天満宮から

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村田八幡宮の写真をご覧になってさようなら

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参考文献

佐賀県神社誌要 - 国立国会図書館デジタルコレクション

天満宮

日子神社の概要が知りたい。祀られている神様やできた由来、なんのご利益がある神社なのか知りたい。 | レファレンス協同データベース

村田八幡宮に関する資料はありますか。 | レファレンス協同データベース

鳥栖市ホームページ - 市指定重要文化財(石造建造物) 肥前鳥居の紹介です

鳥栖市教育委員会肥前鳥居 鳥栖市重要文化財(石造建築物)」とすの文化財解説シート 指定文化財シリーズNo.2, 2000-03.